夜が沈んで言葉を繋いで、水面の波紋に揺らいで言葉を失う

なんとなく、自分のエントリを読み直していましたんです。まるで他人の日記を読んでいるかのようでした。自分が移り変わって行く様子を眺めて、言葉になってない部分を補完して、それでも足りない部分は何だろう、と。そのとき何を考えて書いたか表現しきれてないから、想像が及ばない部分がある訳です。考えが甘いなーと思う部分もあるし、今では絶対こんなこと言えないぞ、とそんな箇所だってあって、それはそれで面白いのですけどね。なにかしらの変化が僕に起きたのを、エントリ書いた時点の僕と比べながら確かめるんです。


今は酔っていて、そのせいもあるかもしれませんが・・・。頭がゆるふわです。とても、ふわふわしています。そしてその状況を楽しんで、こうやって文字にして楽しんでいます。



本当はね、すぐにでも寝ないといけないのですね。明日は一限から大学があるのですが、眠れません。全然寝付けず、もうこればっかりはどうしようもなく。頭がぐるぐるして、いろんなことが渦巻いて、楽しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと、ごちゃごちゃに僕を責め立てて、しかしベクトルは定まらず、言葉にならずに浮いては弾け、かつ消え、かつ結び、夜が沈み、朝日は寝ぼけた馬車馬の如く不順な時系列を刻み・・・


最近は、楽しいです。一時期と比べて生きる希望が湧いてきました。や、死にたかったとかそんなわけではないですけど、僕だってそれなりのプレゼンスを得て、普通の幸せの一端みたいな何かを甘受し、明日の為に今日を頑張ろうと思えるようになりました。ついでアクション起こす為の「やる気閾値」みたいなのが低くなりました。
リア充、そうかもしれません。定義はともかくですね。「僕はここにいてもいいんだ!」と思えるような場所を、Twitterでやっと見つけたような気がします。気のせいかもしれませんが、今はそう思っていたいんですね。
しかし、ネットを経由した部分のそれは、「生々しさ」が欠落した何かではないかと疑うときもあるのです。ネット上の知り合いは、リアルで何か行動を起こしても、結局ネット上の活動と結びつけてしまうのです。僕らは架空のid名で出会い、架空の人格を演じ、生牡蠣を食べる。生牡蠣は美味しいけれども、隣り合った彼らは架空の人格で、僕の味覚も架空のそれで。架空の僕は踊り、彼らは生牡蠣を食べる。架空の彼らが食べる生牡蠣で架空の腹痛を起こすかもしれないし、起こさないかもしれない。それは画面の向こうの文字列から判断するしかない。僕は牡蠣に当たり腹痛を演じることも出来るし、当たったのに平気なフリをすることだって出来る。精一杯のつよがりで僕は生きていく権利がある。現実はともかく。

でも、そもそも僕らは、現実の自分の人格も「自分でなければなるまい」と思い込んでるだけで、その実体は何もなかったりするかもしれないわけです。僕らの一挙手一投足になんの意味があるか?というのは、意味付けするのは僕ら自身であるはずです。万能な都合のいい神様が全て意味を見いだしてくれるのなら、もっと楽だったんでしょうけどね。そんなことはないですからね、残念ながら。
宗教と言うのは行動規範を誰かに他人(神)に丸投げ出来るので、それはそれで楽なのかなーとか考えたりもしますが、手段と目的が入れ替わってる人が多いので僕は好きになれませんね。うん。ウチの親父がそうなのですけど。



[我思う故に、腹痛ありや]

この腹痛は本物で、だけどそれが牡蠣によるものかは判断できない。牡蠣による腹痛だと思ってもいいし、そうでなくてもいい。ろくなものを食べてないから、この腹痛は何に起因するかは特定できない。
認識で世界は変わり、しかし事実はまた別にある。しかし僕の腹痛は僕だけのもので、貴方と共有することはできない。

腹痛を生きる力に変えていきていけたら、それはそれで楽しいのかったりするのかも。
でも僕は腹痛を楽しむ心の余裕はなく、トイレにMacBookを持ち込み、アルコールに浸された頭でこんな病んだ文章を書き連ねたワケでした。ばたり。