狂人を志向すること

昔、10歳ぐらいまでか、自分は天才だと思っていた。結果として勘違いもいいところだったのだが、当時は僕のアイデンティティーであった。ろくに勉強しなくてもテストで点が取れるし、誰よりも手先が器用だった。やろうと思えばなんでも出来た。他人より自分が優れていることが嬉しくて、他人がやっていることを真似して、それを本人の前で超えてやろうと息巻いたりしていた。覚えている限り、僕はそれを容易に達成していた気がする。よく言えば向上心豊かな子だったのだが、その原動力は薄汚れていて俗悪だった。

僕は周囲に馴染めなかった。その理由を自分の家庭環境に求めた。確かに僕の家庭環境は異常であり、なにやらわからぬ妙な宗教団体に入り浸っていたり、両親はほとんど家におらず孤独にすごしていたりした。母は病気で入院していて、親父は仕事に忙殺されていた。親父と祖父は宗教の問題で揉めていた。僕は対象年齢が高いテレビゲームばかりしていた。ゲームがなによりの友人だった。


偉人の本が好きだった。アインシュタインやノーベルが好きだった。
彼らは世間で言う気狂いであり、「普通」とはかけ離れたが故に天才だった。

学校で周囲から聞かされる、普通の家庭像にそれなりに憧れた。それと同時に、自分の狂気に陶酔した。「普通の人生」の欠損が僕を捩じ曲げ、それが狂気を生み、その狂気故に自分の才能を裏付けているのだと思った。おまえたちと僕は根本的に違う。だから僕の有能さはこれからも揺るがない事実だ、と。
この愚かな少年は、幼少時は母親にひたすら甘やかされて育ち、一人っ子であり、世間との距離の取り方はわからなかった。狂人だから理解出来ないでいて当然だとも思っていた。

これが僕の早すぎた中二病だ。むずかゆくて吐き気すらする。


時間は残酷で、歳を経るごとに世界は広がり、優秀なつもりの自分が崩されていく。
全てがそれなりに狂っていて、その全てが許容範囲の中にあり、誰かと同じように狂っていた。
そして、どこまでも平凡だった。

狂気が才能を担保するのではない。狂気に耐え続けた人が、結果としてある種の才能を有することはある。が、僕はどこまでも凡俗だった。憧れたのは、才能ではなく形だけの狂気だった。

それに気づいたとき僕の中に残っていたのは、虚栄心の残滓をすすって人生を食いつぶさんとする、怠惰の魔物だったのだ。