枯れた英雄と編集というフィクション

近所のラーメン屋で、あまりにも注文に待たされて暇だったから、きまぐれにテレビをみていた。サッカーの国際戦などを除き、日常においてテレビをみない僕にとっては、久しぶりの視聴だった。


すごく、つまらない。


ケンミンショーだったか、たしかそんな名前の番組。その番組は地方の風俗だかをピックアップしてそこ出身の芸人に語らせる、というような構成だった。そういう番組が人気があるとは聞いたことがある。

僕は、個人的に他人から画一的な個性を押し付けられることを何より嫌うのだけど*1、その番組を見ている間、非常に不愉快な思いをしていた。集団にアイデンティティーを帰属させることで安心感を得られるかもしれない。が、それ以外の自分の有り様を、同時に抑圧しているんじゃないだろうか、とか云々。まあテレビの基調は視聴者のとの一体感だと思うので、番組の方向性としてはそれでいいんだろう。よく知らないけど。


しかし、まあそれ以上に、番組の演出が非常に稚拙なものに感じられてならない。

例えば、笑い声の演出。さして面白くないネタを、無理矢理盛り上げている感じ。その「虚構」を楽しむにはそこに没入できるかどうかが鍵となると思うのだが、自分はそこまで素直な大人にはなれなかった。素直というか、愚直というか。昔だったらこれほどまで認知的不協和を起こすこともなかっただろうな、とも思う。
幼い頃にも同じ感覚を味わった気がしている。戦隊ヒーローが現実にはいない架空の存在だと気づいた時のこと。当時5歳だか6歳だかの僕は醒めてしまって、以降特撮モノへの興味を失ってしまった。現実感の喪失。身体感覚の延長として、この世のどこかで行われている正義と悪の戦い、は、存在しない。


大のオトナの芸能人を使って、とてもくだらないことを持ち上げようと必死になっている。視聴者との騙しあい。だけど、連続的なテレビとの関係を絶った自分には、その全てが白々しく見えてならない。もちろんネット的な感性に毒されてしまったのもあるだろうが………。

何が悲しくて知りもいない他人の人間関係を予習しなければならないのだろう。いや、人間関係がコンテンツになるのは、ネットだろうがテレビだろうが当たり前だと思うんだけど、テレビってのは「芸能界」という非常に内輪な世界があって、それを視聴者に追っかけさせる構造になっている。そこに魅力的な人間がいればいいが、多くは英雄的な、枯れた英雄的な「昔はすごかったんだぞ」という武勇伝を持つ人の、残滓をみているようだった。枯れてる人ほど露出する。それでも安定して面白い人はいるのだろうけど、だったら僕はそれだけでいい。コンテンツが分散して、一つ一つが非常に中身が薄くなってるんじゃないのか。そう考えることは傲慢か。24時間もテレビを放映しつづけるのみ資本主義の要請以上の意味は?


騙されているのが幸せか。騙されまい振る舞うことが、楽しみを失わせるのだろうか。そういう欺瞞について考えながら食うラーメンは、そこまで美味しくなかった。メンマが固かった。

*1:血液型性格診断はその科学的根拠の不確かさよりも他人への押し付けに腹が立つ