人生初の選挙にいってきた そして僕は考える


 昨夕、猛烈な眠気が襲ってきて布団に入り、朝起きたら政権が変わっていた。騒がしくなる永田町とは対照的に、選挙カーがいなくなったこの町は静けさを取り戻すだろう。
 僕にとっては、それがなにより大事なことかもしれない。いや、今回ばっかりは完全にそうと言えない。ほんの少しとはいえ、自分も政治に参加したことになったのだから。
 とまあ、そんな感傷に浸って、僕ら若者にとって政治参加ってなんなんだろうなってことを、ちょっとだけ考えてみたりした。


 21歳、と4ヶ月。成人してからとくに選挙という選挙がなかったため、選挙権を獲得して一年半してのはじめてを権利を行使する機会だった。
 昔から決意していたこととして、人生で最初の選挙は、参政権を勝ち取った民主主義の歴史に敬意を表してなにかしら投票しようと決めていた。それに、一度手続き上の選挙を知っておけば、これ以降いざというときの決断が楽になるだろうな、という意識もあった。
 実際の投票は、今まで聞かされてきた重みは微塵も感じられなくて、びっくりするほどあっけなかった。近所の児童館まで、自転車で3分、並んで5分。それだけ。帰りに昼飯のためのパンを買った、なんてことのない日常の一コマだった。

政治とは何か 自分にできることはなんだったのか

 大多数の若い世代と同じく、僕は政治的な態度が確立していない。そして、政治があまり好きではない。こうやって言及して、結果として何らかの立ち位置を迫られることも嫌だ。*1
 投票という決断で、望もうと望むまいと 自民 VS 民主 の対立に巻き込まれる今回の選挙は、可能ならば避けたいところだった。なぜかって、どちらにも希望も絶望も見いだせないのだから。
 金銭的な問題だとか、信条だとか、宗教だとか、「背負うものがない自由な自分」あるいはその妄想にとって、しかし社会と自分に接点を見いだすことが難しいとき、自分が想定する社会正義に従うしかない。でも、大衆的な社会正義といった妄想が信じられないとき、僕は何に従えばいいのだろう?


 言葉の上の約束ではなんとも言える。その言葉が日本を、マクロに見れば世界経済を、ミクロに見れば近所のコンビニさえ変えていくのはわかる。「理論的には」、だ。
 実際には、僕には何も実感がない。身体感覚と結びついた政治がない。大学に通うモラトリアムの僕には政治を語るべきではないとさえ感じる。或いはそう脅迫されている。どこからか、なにからか、「怠惰でノンポリな若者」を押し付けられている。


 世代として何か勝ち取ってきた何かがあったか?いや、今までは、与えられたものをどう享受するか、という問題だった。不公平と理不尽を、「大人の理論」で納得する作業だった。
 僕らがゆとり世代と呼ばれることと、自分がこの時代に生まれてきたことは、切っても切れない関係であるが、選択の余地はなかった。生まれとは、世代とは、時代とは、そういうものなのだろう。だからといって、その不名誉を全て引き受けるかと言えば別の問題なのだけどね。


 今回は、マスコミが煽る「ファッションとしての民主」に投票してるだけなのだ、誰もかれも。その正しさなんてほとんどはわかっちゃいない。わかった気になって納得している。


 全てが欺瞞に見えるのは、中二病だと言えばそれまでだ。が、それを思考停止にする言い訳にはしたくない。だけど、考えてもわからない。
 イデオロギーありきで導かれる種々の政策、「かくあるべき」がぶつかり過剰に飽和する「大人の世界」に、自分達の居場所が用意されていないように感じる。
 自分や社会にとって「よりマシなもの」を選ぶことが選挙だとは理解している。最大公約数的の幸福が民主主義の目指す先で、その時々の正しさは後の歴史が担保すると言えばそれまでだが、よりマシな未来を目指すために、僕らは何を信じればいいのだ?金という暴力か?気高い自由の精神か?あるいは、思考停止という名の、決断の委託か?


 何らかのイデオロギーに巻き込まれたとき、自己正当化のために否応なく理論化されていき、そして納得する。いや、納得した気になる。でも、その結果として僕らの望んでいたことは何が残っていただろうか。
 わからない、わからない。だけども、考える。考えるのをやめたときに精神の死がある。考えて考えて、なんらかの答えが出ると思ってるのが、一番醜いエゴかもしれないのだけど。

*1:僕が本当に政治が嫌いになった直接のきっかけは、はてな南京事件関連エントリの、いつ終わるとも知れない双方の人格批判だ