疑似科学について思うこと ホメオパシーと宗教と巻き込まれた自分

ホメオパシーといえば、嫌な思い出がある。
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僕が13歳になるころ、身の回りの人間がバタバタと死んでいった。大きな事故に巻き込まれたわけではない。老齢の祖父が肺炎をこじらせ、母は長く患っていた癌で。そして僕が最も可愛がっていた愛犬は、散歩中に車に轢かれ肉片となった。それらの出来事が、中学校入学を挟んで、たったニヶ月ほどで起こった。

まあ、偶然重なっただけだろう。だが、僕はその中で現実を直視せず感情を動かさないことを学び、あらゆるものに無感動になっていった。気づいたらうつ病的な症状を示していたのだと思う。
僕の親父は、モルモン教徒で、宗教家ゆえかやや神秘主義的な傾向があった。それもあって、母が末期癌とわかってからか、ホメオパシーを勉強したり「水からの伝言」を患者に配って回ったりしていた。僕はそんな親父が嫌いだった。健康にいいから、とアガリクス茸の粉末を飲まされていたりした。


ホメオパシー水からの伝言アガリクス


疑似科学に関心がある人間なら、必ずその名を耳にしたことがあるだろう。やれ、類は友を呼んでいたということか。
で、当時あまり知識がなかった僕はホメオパシーのカウンセリングを受けさせられた。硫黄が... とか言われていた気がするが、その分類に今の自分はまったく興味がない。
ともかく、僕は国家資格を持った医師の父と、西洋医学に見放された母の元で、疑似科学がまるで正当な科学の一つであるかのように言い聞かされ育ったわけだ。


今のようにネットに情報が溢れかえっていない環境だと、自分が受けた教育の妥当性さえ推し量ることができないわけで、僕はそれはさも当然のことかと思い育った。
当時から自分の宗教に対しての懐疑の目はあったが、それに類さないものへの抵抗がなかったので、ネットで話題になるまで、正当な医学の一つかと思っていた。それがいまやどうだ!

宗教と疑似科学

母の死はモルモンというクソクラエな教団の中で「現世における神の試練」に還元されていった。宗教というのは、とても都合のいいものだと思う。彼らにとっては幸せは「神の祝福」で、不幸は「神の試練」なのだ。しかも相対的な幸福の基準を死後の世界においているから、その価値観に対する外部からの干渉は何の意味もない。


宗教と疑似科学は、組織としての質は同じだ。疑似科学は現世の幸福を追い求めるツールとして疑似科学を用いるが、西洋医学の枠にない彼らはあらゆる近代的な... たとえば統計的なデータや実験結果を信用しようとはしない。都合が悪いものは排他する。そして自己の判断を尊重しすぎるがゆえに、外部からの説得には耳を貸さないし、圧力の存在こそが自分たちの正当性を担保するものだと思っているフシさえある。「皆が認めないものの価値がわかる自分はえらい」。そういうのは音楽だけにしてくれ。


とまあ、いろいろあって、僕は宗教を捨て、親の影響が届かない東京の大学に進学した。

この件において、情報弱者であることは罪ではないが、情弱でありつづけることは自己責任だ。どちらが幸福か、は、ともかくとして。