理解しえないものを「情弱」と断罪し排他するナルシズム (続・意識が高い学生


情弱というのは、自分のクラスタとは異なる知の形態を持つ人間への蔑称である。そして同時に自己保身の裏返しである。自己の所属する世界が正しいという保証がほしいから、己の理外のそれへ、そんなものも知らないのかとレッテルを貼り、安堵しようとする。
TVのエンタメを嫌悪し2chまとめブログを見る人間が、その逆の人間を情弱と(一方通行ながら)呼ぶとき、そこには自己のクラスタへの賛美、翻っては自己の選んだインターネット的な知の形態への賛美が含まれるのだ。その点において「情弱」と「異教徒」は同じ言葉だったりする。


まあ、前提として、僕はその選択が必要なときインターネットを選んだならば同意するような人間であるし、このブログを目にする人間の大半は、程度こそあれ、その手合いの人間だろう。ようこそ、インターネットは我々の世界だ。


ということを踏まえて、前日の僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla - mizchi logの反応にこたえていきたい。

記事を書くに至った背景

まずネタバレ。僕と同じく #maspla を批判していた id:thir とはマスプラの前日id:ymrl宅で一緒に鍋を囲んで酒を飲んでいた。ymrl宅で行われた全損ハッカソンの主な趣旨は「意識が高い学生の観測」で、主にまどかマギカとニチアサをみていた。要は暇人が集まってぐだぐだする会である。

当日あの場にいってみたい気持ちもあったが、徹夜でアニメをみており夕方にはほぼ力尽きていた。そもそも「意識が高い」ものへの防御力が極端に低いので、たぶん身をくねくねさせながらうおおー!と会場を飛び出すのが関の山だっただろうが…。

そんな僕がマスプラを見ていたのはその場にthir(初対面)がいたからで、ハッカソン当初の予定にはなかったが、昼はthirとぐだぐだ話ながらマスプラを見ており、ある程度言外の共通理解があるはずだと思っている。


さて、ここで1つ謝らなければいけないことがある。僕は記事を伸ばすために、必要以上に扇情的な文章を仕立てた。僕が意識が低いと自称するのも、ある種の詐称であると自覚しており、彼らと理解し合えないという一点のみで「意識が低い」に該するということに他ならない。

記事を19:30にUPしTwitterに流したのも、完全に自分のTLのアクティブメンバをみて、このテーマでRetweetしてくれる人間がいることを確認して行なっており、これは僕の影響力の程度では正当な批判を受けるための、一定数以上誰かの目に触れる、という初期段階をクリアする自信がなかったから。この点、僕はえがみと同じ人間なのかもしれないな。


クリアしたついでに、ここで1つ傲慢な自己主張をしておく。この件がはてなで流れたのは #maspla がはてなへの訴求力があったからではなく、僕の主張とそれに付随する問題提起が部分的に受け入れられたからである 。僕の主張の及ぶ範囲もマスプラでの出来事に限定するつもりはない。その点勘違いしないで頂きたい。

とりあえずは問題提起としてホッテントリに入れることが目標だったので、その点は満足している。さて、話はここからだ。

意識が高い〜 の記事への反応

次の二つのエントリが本件に関するものだ。

MASTERPLAN第一部総括 #maspla - だいちったーえっくすぶろぐ
「意識の高い学生」とは何か、その意義と批判 #maspla - Thirのノート


主催の大地さんへ。
早稲田先生のドタキャンに関する話も、あまりに表に出せない部分まで知っているので、なんとやらで。本当に大変でしたねという言うほかない。
それはそれとして、だ。


id:thir

それは単なる羨望や嫉妬ではなく、すでに存在するロールモデルをなぞっているに過ぎない彼らに対する失笑が含まれている(そこでは、目的が何であるか、すなわち(笑)が付くかどうか は問題ではない。なぜなら、彼らが実際にどうなのかは、ウェブ上の情報からは全く想定が付かないのであるから)。

僕が感じていたのはまさにこの感情だった。


id:thir

彼(筆者注:id:mizchi)は、本質的に「意識の高い学生」と「意識の高い学生を模倣している人間」を区別していない。それは、我々の側から彼らを区別することができないこと以外に、彼らもまた共依存の関係にあることからきていると私は推測する。すなわち、前者は、あるロールモデルを作る。そして、そのロールモデルを 後者が称賛し、コピーや真似を繰り広げる。それを見た人間は、また……という、再生産の仕組みがここには生きているのである。

そう、僕は区別していなかった。彼らの世界に疎いのは、その価値観を認めたくないゆえの逃避でもある。


id:daichittax

YMT56にしろ、秘密結社笑い飯にしろリンク先を見てもらえばわかるだろうがそのような思いからコンテンツを製作していた学生を呼んだつもりだ。無論その方がコンテンツの質がいいのはあたりまえだし、YMT56は計算高い学生が出たくて堪らないマスメディアに全く意図せずに取り上げられるに至った。彼らをぶつけたかったのはら僕も同じ批判を彼らに抱いていたからだ。

彼らをよく調べずにロールモデル批判をしたことは謝らなければならないと思う。彼ら自身のコンテンツ力は確かに高い。
ただ、それがあの場のコンテキストにおいては、共依存のしがらみの中で計算され演出されたものに映ったし、実際そうだろう。どうしても、あの何度も放送されたスーパーフリーのグラビア女性とのジャンケン大会がちらついていた。すごく「意識が高い学生」的なそれを。


id:thir

もちろん、前回の記事に書いた通り、この再生産には部分的に「バカなことをやっている学生」も関与している。これらはすべて一体となって共依存関係を有しており、その意味で、「マスタープラン」というイベント自体が、再生産モデルに乗った強者達がそれぞれのポジショニングを再確認し、更なる再生産へ向けて生産関係を加速させるため の、ある種の「自己神話」ないし「偽史」を製作するためのひとつのイベントとなってしまっているのである。

この再生産こそが現存のロールモデルの肯定となっており、それゆえ不快感を覚えたのだと思う。


id:daichittax

当初の企画は、ソーシャルグラフが広いようでとても質的にはクラスタに閉じている「意識の高い」学生と「意識の低い」学生をぶつけることでそれを示す企画だったのだ。

(中略)

「意識の高い学生」として元々呼んでいたパネラーは、団体を作ってマネジメントしたり、身近なロールモデルを示すような学生だった。それは時に宗教とみなされ笑いの対象でもあったが、彼らのおかげで楽しく学生生活を送る者もいた。

言い換えればそれは「(笑)」をつけられてしまうような学生をいわば敢えて「引き受ける」(宗教と言われても仕方ない形だが)だけの俗悪さと、しかしそれによって(笑)を自分にもまたつけられることに耐えられるだけの強さがある学生だったのだ。

インターネット的な情弱情強の概念を知った上で、そして自分たちがその属性の中で排他されるべきであるとわかっていながら、それをセルフプロデュースの一環として扱ってみせる様は見事だったと思う。だがそれゆえに、彼らが自分たちの有り様を肯定するのが嫌だったのだ。


それについては、id:thir

一般的に、「意識の高い学生」と呼ばれる人間は、そのような「大学生らしい頭の悪さ、バカっぽさを存分に引き出しているが、その方向においてはかなりの努力を行い、もしくはクオリティを 維持しているもの」に対する理解を実は持っているものである。なぜなら、自分たちも「バカ」になるときは徹底的に「バカ」になるものだから。彼らの言う 「意識の低い学生」は、「意識の高い学生」に対し、「お前らのやることなんか、いくらでも変な方向に模倣できるんだぜ」というステレオタイプを提供し、「高い学生」を笑いながら楽しみ、新たなネタを提供する。このように、彼らは実は共存関係にあり、むしろその「輪」の中から零れ落ちる大多数の人間こそが、「意識の高さ」を屈折した形で批判するのである。

の解説で腑に落ちた。僕のような人間が泳がされていたと思うと、一種痛快な気分になる。


id:daichittax

このような「高さ」と「低さ」の入れ替え可能性すら理解出来ない程度の、しかも屈折した形で批判もしないような、無個性にロールモデルを信仰するしかできない(笑)をつけられてしまう学生に大しての啓発のための企画だった。
(中略)
しかしながら、様々な理由から「意識の高い」全員が直前に出演を辞退したため、それは叶わなかった。なので、第二部の「意識の高い学生」を代わりに呼ばざるを得なかった。
彼らは、「(笑)」をつけられるような学生を「引き受けない」潔癖さと既に事業を始めていたり誰にも認められる能力と実績を持っている、それが許されるだけの力を持った学生だった。そんな彼らと、「意識の低い」学生ではどうやっても対立は起きなかった。その場は一方的な「(笑)」をつけられる学生の断罪になってしまう。


僕も大地さんも、意識が高いとか低いとか、そんな「低レベルな」話をしたいのではない。ただある側面を表す属性として便利なので使っている。意識が高い、意識が低い、は、情強と情弱同じく、まさに理解出来ないものに対するレッテルでしかないのだから。


それでも、今の「意識が高い学生」のロールモデルがどうあれ、僕はそれを肯定するつもりは全くないし、daichittax さんは清濁併せ呑むことができる人間だとわかってたから、記事を書いたときに真っ先にリプライした。僕らの取るべき道はどこか。
両者の歩み寄りの接点がどのような形で現れるかは、あまり自信を持って答えることができない。何をもって両者の乖離を埋め合わせるか?それについてこれから考えたい。

学生団体の宗教性

避けて通れないので、まず自分について述べておく。僕の生まれはモルモン教徒の家庭であり、そしてなによりモルモンを嫌悪しながら育った。モルモンへの敵意は、大人になるにつれ「自分で思考することをやめた人間」への敵意になった。

「意識が高い学生」が、まさに自分で思考することをやめ、誰かの言葉で語りだす時、それは僕の敵意の対象だった。

第一部の中盤辺り、学生団体の宗教モデルについて語られ、そういうものがあると、さも当然のように受け入れられる空気に、僕は強い嫌悪感を覚えたのだ。それがある程度上手く行くだろうとわかっていても、その嫌悪感は生理的な域に達しているのでどうしようもない。

これに関しては、僕自身の属性に強く依存する話なので、意識の高低の話ではないかもしれない。

おまけ 学生団体とウェブについて

今回の趣旨とは別に、技術的な観点で行っておきたいことがある。それは検索性の悪さ。

企画書はgoogleドックスで公開されていて、とてもアクセスが悪かったのを正直反省するが、是非ご覧頂きたい。

うん、僕が最初に興味を持って検索したとき、気になったのがそれだった。
Twitterに限定すれば masterplanなんて競争率高い一般名詞でページランクを奪うのは難しいと分かるが、学生イベントとかと組み合わせたクエリでGoogle上位を取るのは全く難しくないはず。このドキュメントはいずこかでHTMLとして出力されるべきだった。「これ」といった誘導がなされていないのは(Google Docsがそうだとは想像しがたいものがある)、イベント企画としてどうなのよーとは思っていた。


ついでだから言うけど、たとえばよくある、学祭の度に年度のウェブサイトを作り直すのがバカのやることだと思ってるし、一利用者としては「みんなでその年のウェブページを創り上げる」、というくだらない自己実現に付き合うつもりもない。h1をaltなしの画像で、ページはテーブルレイアウトで、ヘッダにお決まりのように画像をスライドするFlashがあって。やめてくれよそういうの。それでドメインがfc2とかだとゲンナリなんだよ。


SEOを細かく指摘したいわけじゃないが、最低限の作法すら守らないのは、アクセス性を低下させて批判の受け皿になることを避けている面もあったりするので、その面でも僕はウェブに出ろと言いたいわけ。おまえたちの言説にはもっと価値がある、というその点において、ね。炎上ではなく問題提起だと繰り返したのも、やはり今の学生が過剰にウェブの表舞台に出ることを恐れている面があったので、正しい手続きをもって耳目を引くのは何も悪いことではない、と伝えたかった。それは絶対に立教レイプ生みたいな結末にはならない。


僕が前の記事で「手伝えるかもしれない」と称したのは、そういう部分を最適化してTwitterブロゴスフィアで表にでるべき人間を正しくプロデュースすることができる、とか、そういう点を指したりしていたわけで。僕がMagnetPressで宮崎駿津田大介のインタビュー記事をプロデュースしたように。


埋もれるべきではないコンテンツが埋もれていくのは、耐え難い悲しみを感じる。あるべきものがそこにない。
それが初期衝動。だからもっとうまくやれるんだよ!