「輪るピングドラム」の親と子の関係 あるいは親を選べない呪縛について
主人公父の某サリン事件を彷彿とさせるエピソードから、「綺麗なものしか愛せない父親」から身体改造されるゆりの話をうけて、一部思うところがあった。あくまで24話(25だっけ?)のうち15話、盛り上げてる真っ最中なので、全然思い違いをしているかもしれないが、とりあえず今の感想として残しておく。
子供が自らの意思で親から受け継いだものを捨てるには、覚悟がいる。金銭的に独立することだけではない、精神的な独立だ。親は子を教育する。親の信じた信念を、親自身の勤勉さによって、子へ受け継がせようとする。それは、とても自然なことのように思えるし、その振る舞いを否定することは、誰にできるだろう。
でも、もしその信念が、どうしようもなく間違っていたとしたら?
洗脳された子供は、いつその思想を否定することができるのだろうか。
DVをうけた子供は、いつ両親を告発することができるのだろうか。
あるいは、その権利があることに気づくチャンスは与えられたのか。
僕の話をしよう。
僕が育った「教会」では、神の疑い方にもルールがあった。青年期に、一度だけ、断食を伴って、祈りをもって答えを得ること。
言わせれてもらうと、その方法は、充分に洗脳済みのバカが、ファッションとして「神を疑いそして改心した自分」というエピソードを演出する手段にすぎない。そのルールに従う限り、自らを縛る神というシステムを疑う方法は存在しない。そういうものは、チャンスが与えられたと言わない。デキレースだ。
僕へ振舞われた暴力は、洗脳のような繰り返しと、時間的拘束だ。一週間の内、1日を神に捧げること。一日一時間聖書を読むこと。僕が自らの意思によって神を信じるのをやめた12歳まで、そして肉体的に親父に抵抗できるようになって教会にいかなくなった15歳まで、僕の意思は彼らの信じる「神」によって蔑ろにされてきた。このとおり、エゴが強い人間なので、考えずにいられなかった。
自己の判断が介在する余地があったかどうか、それこそが重要な問題であり、そして、その意思が、どの段階で、どの程度尊重され、正当に取り扱われたか、それをもって子自身がその現状に負う責任が測られるだろう。当人にとって、自らを縛るルールを自分で選んでいないことに気づき、そこに選択の余地があると知らされた時、考えられうる限り無数の環境の中から、今のものを選択し続ける理由がどれだけあり、そして、親との関係を犠牲にして、本人の意志による選択を行う人間がどれだけいるだろうか。
それは、当人の、運命のめぐり合わせによるとしか言うしかない。
運命という呪い
高倉兄弟は両親の起こした事件(サリン事件?)に負い目を感じているものの、育ての親としての両親は尊敬しており、そこに葛藤を感じている。
時籠ゆりは自らの意思によらず抜けだしてしまったことで、そこで犠牲となったものを取り戻そうとしている。(のが最新話)
荻野目苹果は「姉の死によって引き起こされた家庭危機」を「誰からも愛される姉」の代わりを努めて解消しようとしている。
夏目は与えられる側(冠葉)の苦しみを考慮しない一方的な愛を体現している……のか?
輪るピングドラムで描かれる父母と子供たちの関係は、「己を生み出したもの」が産み出した問題、いわば呪われた兄弟を、子が自らで意思で解消しようとする、そんな関係だ。そして生み出した本人は物語から既に退場してしまっており、「過去の話」として扱われる限り、外的な要因によって自動的に解決されないので、登場人物たちの心象に内面化されてしまっている。それは自らを縛るシステムから抜け出すための物語である。作中で語られる「運命」は、どの親のもと、どの環境で受け育ったかという問題であり、キャラクターそれぞれの運命に対する立ち位置は、そのキャラクターの自己肯定・自己否定のかたちだ。
と、まあ終わってないアニメについて決めつけたように語って、終わったときに間違ってたら恥ずかしいのでこれぐらいにしておく。よくわからないと言われてるアニメだけど、自分が育った「教会」での二世のそれぞれの生き方をみていると、少なからず重なる部分があった。ああ、あと、ウテナは一話しか見てないので監督の思想的なものはよく知りません。この話は以上。