「うみねこのなく頃に」に見る物語消費


 C76で配布された「うみねこのなく頃に散」を終えた。これは「うみねこのなく頃に」シリーズで五作目にあたる。
 新たな謎を解き明かす!というカタルシスは少なかったが、「物語の構造」について考えさせられる箇所が多かったため、できるだけネタバレしないように夏休みの読書感想文でも書いてみるかーっと。そんな具合。

 そうそう。最近、前の記事で宣言した通り東造紀や構造主義現代思想の本を大量に読んだため、かなり影響を受けてしまっている。ご容赦いただきたい。

物語の構造と物語消費論

 前作まで通りパラレルなフィクション(六軒島殺人事件)、メタフィクション(作中の上位世界からの考察)、さらにメタレベルの視点(作者と読み手の関係)を織り交ぜながら進行し、さらに古典的ミステリーとアンチミステリーの問題を提示していたが、今回はそれらの対立を軸に弁証法的に次のステップに進もうとしていた。
 作者と読者と信頼関係のために、推理小説のお約束「ノックスの十戒」の必要性を認める。が、全てを見落とさない「探偵」の存在を醜く傲慢に描き出すことで、ミステリ的な作品全てが本格ミステリーの枠組みに従う必要があるだろうか?ということを訴えていたように見えた。ノックスを擬人化した存在にそれを語らせることで、作者自身のミステリー作品観・ミステリーファンへの意見を述べていたのであろう。エンターテイメントが必ずしもノックスの十戒に従う必要性はない、と。

 ご存知のように、竜騎士07氏は「ひぐらしのなく頃に」で用いた「雛見沢症候群」に対して、ノックスの十戒・四条「科学上未確定の毒物や、非常にむつかしい科学的説明を要する毒物を使ってはいけない」というお約束を破ったことへ、手ひどく批判を受けていた。基本的に、「ひぐらしに幻滅した」という層はこれを理由に挙げることが非常に多い。
 相次ぐその批判に対する返答として「うみねこ」は作られている、と僕は強く感じた。作者自身の「物語消費はかくあるべき」或いは「このように消費されても構わないはず」という主張が、「うみねこ」の通奏低音の一つであるに違いない。

作者と読者の認識フレームのズレ

 「うみねこ」の読者は、出題者が簡単だと思った問題でも、読者にとっては非常に難しく感じること、作者が表現した問題意識と読者が抱いたであろうそれのズレが、非常に大きくなっていることを危惧していた。今回、それについて作中でも言及された。物語の出題者は自分の認識フレームの中から問題を考えざるを得ないのだが、言うまでもなくそれは第三者と共有できないモノであり、他人にとっては受け入れられないものかもしれない。このフレームの一般性が著しく損なわれたとき、作者と読者の信頼関係が崩れてしまう。
 ここにおいて、作者と読者の信頼関係が必要になってくる。ノックスに従うことは、その信頼関係を築く手段の一つだということを示したわけだ。「愛がなければみえない」という、作中で何度も語られるフレーズは、作者との信頼関係について言及したモノに思えてくる。

 しかし、「作者のみが真実を語りうる」という通説に対して、「より強い客観的事実があれば作中の真実は否定される」とも作者(竜騎士07氏)自身がインタビューにて答えている。これを東造紀っぽくいうとオリジナルなきシミュラークルという同人世界観を示していると受け取れなくもない。その意味では郵便的不安(オリジナルの意図が誤って伝わることへの不安)の克服を目指していると考えることもできるかもしれない。まあ、投げっぱなしの問題に対して「読者が答えを作り上げろ。それを採用するから」ということがあるとすれば、ずいぶん前衛的なことだが。


視点をズラして考える

(以下ネタバレあり ネタバレありだけど今回は劇的な展開はなかったので問題ない気がするが・・・)


 今回は過去エピソードへの解決の手がかりとなるものも少なかったが、物語の構造が大きく異なった。ゲームマスターベアトリーチェではなく、今まで傍観者でしかなかったラムダデルタ。彼女の作ったシナリオは、ワルギリア曰く、それは「チェス盤の駒は一緒だけど、相手に駒を投げつけたりする」「愛がない」もののようだ。しかし、ベルンカステルとラムダデルタは完全な上位存在ではなく、彼等の登場すらベアトリーチェの意思の現れだということも言及されている。

 構造が違う故に、ゲーム盤の新たな構造が示される。シナリオ中ではベアトリーチェ(夏妃の妄想の中 メタレベルが一つ低い印象を受ける)は夏妃との契約を果たすために人間説を主張するという、今までは変わったスタンスを取る。それは「チェス盤をひっくり返す」という今までのバトラの行為を、さらに敵側からなぞるということだ。それによって新たな視座が見えることを、作者は伝えようとしていたのではないか。事件の発生直前までの状況はそれぞれに共通だと赤字のメタ情報で確定している。赤字を疑う説もあるが、これに関しては物語の根本に関わるので作者としても動かせまい。


ブっとんだものを楽しむための心構え

 ここで、攻殻機動隊SAC笑い男事件を引用しながら仮説を一つ立てる。

彼自身も「笑い男」のオリジナルではなく、ネット上でたまたま見つけた「村井ワクチンとマイクロマシン療法を比較検討した論文」を読んだ事で行動を起こすよう触発されたと述べており、強いて言うならその論文の作者こそが「笑い男」のオリジナルであると述べている。


 これと同じ構造が、うみねこにおいても存在するのではないだろうか。右代宮家の遺産が、「10tの黄金の存在が事件を引き起こす」という仮説を提唱しよう。
 謎を解くことによってなんらかのメッセージが伝えられ、それが発見者を殺人へ駆り立てる。エピソードごとに発見者は異なる。発見者が語られないエピソードは、語り手(ゲームマスター)の主観から観測できない(しない)として処理されることとする。作中で殺される人間に一貫性がないのはこれによって説明できる。


 とまあ、こんなのはあくまで可能性の一つだ。次の作品も僕らを楽しませてくれることだろう。そう、未だ真相はシュレディンガーの猫箱なのだから。
 考えた数だけ作品の価値がある。数撃ちゃいずれ当たるかもしれないし、もしかしたら全部間違った方向を目指しているだけかもしれないが、棄却した残りの可能性が、いずれ正解に行き着くかもしれない。


 僕は、竜騎士氏との「信頼」に基づいて、作品を楽しむ群衆の中の一人だ。