09年度前期の終わり そして巨人の肩に乗ることについて

今期の大学の講義のだいたいが終わりました。ほかの大学生の皆さんもお疲れ様です。
21歳、二年目の大学ですが、それなりに楽しくやっています。
実際にはあと二つのテスト、一つのレポートが残っているのですが、それなりにやれば全然問題がないはず。クラスター分析に関する論文一本読んでレポート一本書くとか言う、ちょっとヘヴィーなのもあるんですけどね。そうそう、R言語をやらないと。

前回の記事について

前回のTwitterエントリについたトラックバックブコメは全部読みました。概ね同意のコメントが多くて安心しました。なんだかホッテントリにだったようで、自分で書いたものとしては三度目ですね。「はてなーホイホイ」もなんとなくわかるようになってきたかも。

でも、それは、自分の筆力とは関係ない、「Twitterというバズワードに言及する一ブログ」としての評価だったので(現に三回ともTwitter関連の記事だったので)、僕自身が認められたわけではないのです。それはわかっています。それでも、Twitterの一ヘヴィユーザーとして言及できる、場合によっては言及すべき立場にあると思っています。

最近だと、勝間さんやはてなでのTwitterのバズりっぷりについて言及したいことはあるのですが、考えがまとまるまで下手なことを口にしたくはありません。
もっと自分が考えたことを力を持たせるために、文章を練り上げる訓練をしたい。それが自分には足りない。センセーショナリズムなだけでつまらない記事で場を荒らすようなことをしたくない。(そういう記事はたくさんあります) 前回の記事は相当な難産でした。何度も破棄しようとして、不要な部分をごっそり削ったものでした。それでも、文章が繋がっていなかったり、論理的に矛盾している部分もあります。反応に対して返答するためのエントリも二度書こうとしたのですが、二度ともデキが悪かったので破棄しました。

棄却するための教養

この頃、自分には教養や知識が足りない、と強く自覚するようになりました。
何かを語るとき、自分の言葉「しか」持たず、外部へ接続しない。生得的な感覚のみに依存しながら、しかし人類が重ねてきた「英知」を軽く見て、無視しようとしてきました。しかし僕みたいな凡才が一人で考えるより、「頭がいい人」が何世紀もかけて考えてきたことを、それを僕の中で採択するか棄却するかはともかく、一度知る必要があるのではないか。その上で再考するのも、きっと遅くはないのでしょう。

今までこういうことに不誠実だったのは、昔からファジーでパラドクシャルな「文系的なもの」に疑問抱いていたからです。言及の方法、引用の角度如何で、それはなんとでも言えるのではないか。僕はモルモン教団のコミュニティの中で育ったのですが、そこでよく行われる詭弁をいつも目の当たりにしていた自分にとって、全ての議論がデキの悪い詭弁が見えてしかたありませんでした。そして「文系的なもの」への不信感は、僕が前の大学の経営学部をやめた理由の一つでもあるのです。


今でもその感覚は消えていません。だけど、自分が知らないからといって、口を噤みたくはないのです。だから、そういうものへ不誠実な態度を取り続けるのはあまりよろしいことではないのだと自分を叱咤しました。
取捨選択の採択基準が自分であるという点は崩すつもりはありません。ただ、「社会」に言及しようとする意思をもつ一人として、怠慢を理由に避けるものではないと感じました。


言葉を弄ぶなら、言葉を弄んできた歴史を知るべきなのです。知的世界へのアナーキズムに陥るのは、その後でもいいでしょう?