議論に飛び込んでいく価値は、意味は

自分が書いたものに満足できなくては、書いては捨て、捨てては書いて、やっぱり気に入らない。最近はずっとそんな感じでした。
中途半端に完璧主義なのに成果物が中途半端だから自分に納得ができない。たぶんそういうことです。


プライド捨てて思ってもいないことを書いて、それで数字を稼いだって何になるでしょうか。
そういう記事は商業ライターが大量に生産していて、巷にありふれてるわけで、僕ら末端のブロガーが積極的にやる必要はないはずです。僕はSEO屋にはそういう面で非常に不信感を抱いていたりするわけでもあり。


Twitterで好き放題わめき散らして、思索が140文字を越えて、それでも尚言いたいことがあれば、それを記事にすればいい。生き様とプライドだけがここに残ればいい。僕はずっとそう思ってて、だから本当に必要だと思わない限りブログを書かないことにしてたんですが、最近何か物足りないのも事実でした。

質の高いブログってなんだろ


かつて、誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
高校の終り頃、僕は思うことの半分しか口に出すまいと決心した。
理由は忘れたが、その思い付きを 何年かにわたって僕は実行した。
そしてある日、僕は 自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。
村上春樹/ 風の歌を聴け


ブログを書くこととTwitterは全く違うものです。Twitterに書き込むことはきっかけを与えてくれるものにはなるかもしれないけど、生産的な文章を書く練習にはならない。僕は小難しい文章を考えるのが嫌いではないけど、時間がかかる。とても時間がかかる。


いくつかホッテントリをだして、「はてなで伸びる記事」はどういうものかわかってきたけど、僕が書きたいことと本当に合致してるかはいつも疑問として残っていたわけで。

哲学のはなし

夏休みの間、哲学の本をたくさん読みました。とはいってもポストモダンあたりの入門書なんですけど、読み終わってからしばらくはブログを書かないことにしました。どうせ小難しい用語に引っ張られて自己満足なゴミを生産するにきまっていたので。

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

最近は、おかげで脱却しつつあります。自分の中で噛み砕いて理解する…というよりは忘れつつあるんですが、その中でも印象的なものが逆に鮮明になってきました。


人間は社会的な生き物です。社会との関係を絶って生きることはできません。そして、自分が思っている以上に、「社会」や「文化」は自我、「私が私だと思っているもの」を浸食している。逆に言えば、それらによって私自身が規定されている。

それに気づかされただけでも、ほんの少しとはいえ、哲学に手を出した理由はあったのだと思います。
相対主義ニヒリズムはコミュニケーションの断絶を孕んでいるので、自分を大事にしすぎるのも考えものだな、ということ。


そもそもゆとり世代の「個性重視の教育」はありもしない個性を捏造するだけだったので、僕らの社会との関わりの中で自分を発見していくしかない。だから人の営みや、議論の中に飛び込んでいくのは、それだけで成長のきっかけになりうるものでしょう。ホッテントリな話題に飛び込んで意思表明するのも、下心のあるなしに関わらず意味のあることだろうな、と。



目立つパフォーマーを目指すことは、何も悪いことじゃない。


まあそれとは別に自分の核となるなにかがほしくはあるのですけど、それは勉強しながら考えていくとしましょう。