拝啓、ミスターファインマン

人は本当の天才には嫉妬すら感じないというが、優れた鷹は得てしてその爪を隠しているもので、それに気づけない雀は己も鷹になれるのではないかと錯覚する。たくましさをひけらかす鷹へは、その行動をあざ笑って「ああいうのは本当はたいしたことがないのだ」と決めつけるだろう。自分の矮小な何かを守るために。


今ちょうど、「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の上巻を読み終えた。下巻はまだ手元にないが、既にアマゾンに発注してある。この調子ならすぐにでも読んでしまいそうだ。

しかし残念なことに、僕は純粋な少年のような気持ちでこの本を読み進められたわけではなかった。ファインマンに感じたのは、嫉妬だった。
彼が語る彼自身は、僕が子供の頃なりたくてたまらなかった姿だったのだ。


ファインマンは世間一般でいう「天才」と呼ばれる類の人間だろう。そんな人間に嫉妬するなんて、おこがましいことこのうえないとも思う。しかし、この嫉妬は己の怠惰に感じる不誠実さ故の結果であり、僕自身が納得することでしか癒すことはできない、どうしようもなく煮えきらない感情だ。

悔しいのだ、彼の自信に満ちた自分語りが。それを裏付ける努力が。実績が。それに賛辞を送り、僕はまた沈んでいく。
彼の一字一句に感嘆し、嫉妬する。彼が軽快な語り口でおどけてみせる様を想像し、子供の頃夢見た自分の姿を重ね、今の自分とのギャップに絶望する。僕は彼のようにはなれなかった。ああそうさ、僕は彼とは違う。当たり前じゃないか。折り合いをつけられない僕が大馬鹿者なだけだ。



今だって努力はできる。そして僕は周囲と比べて比較的努力をしている方だと思っている。毎日結構な量のテキストを読み、毒にも薬にもならないコードを書き、課題とは全く関係ない勉強に手を出して苦心している。
それでは駄目なのだ。僕のなりたい姿はその先にある。なのに、いつでもそこに踏み込まずにすまそうとしている。あとちょっとの努力で、その一部へ踏み込めることも、経験として知っているくせに。Advancedな世界は見上げる分には美しいが、その中にいると落ちないことにひきずり落ちないことに必死になるだけ。少なくとも僕はそうだった。その程度だったということだ。

今の僕には、すぐにでも投げ出してしまえる程度の覚悟しかない。たとえば、おまえの将来の可能性と引き替えに、虚栄心を満たせる程度の栄誉をやろう、なんて言われたら迷わずハイと答えるだろう。そして、そんな軟弱な姿は、僕がなりたかった姿ではない。


ファインマンのようになる努力はしたか?うん、ある程度まではしていた。していたつもりだった。自分は天才だと思っていて、それに見合う努力をすべきだと思っていたし、あるときまでは。
しかし、結局は投げ出すのだ。きっと僕は投げ出すのだ、これからも。


「もう無理だね」と可能性の芽を潰えさせることさえもできなかった。そうできたらいくら楽だったろうか!理系から逃げるように文転したくせに、わざわざ経営学部をやめて文理ともに受験できる学部にやってきた。さらに理系の大学院を目指そうとしている。度し難いバカである。


自分にはある才能と補いがたい欠陥があると思っている。「なりたい自分」になるための努力量を見積もる才能と、それを楽する方向にしか使わない欠陥だ。

まじめにやっていたら、東大にだって京大にだって行けた自信がある。大言壮語ではない。ちゃんとした見積もりの結果で、自分の勉強量と成長曲線を見合わせて、その域に達するまでの勉強時間、学校の勉強時間+4時間程度だろうか。まぁ受験勉強から離れて久しいので、今は何ともいえないのだが、当時の実感としてその感覚は残っている。努力するなら東大も不可能ではない、と。
しかし僕は怠惰であり、残念なことに怠惰である自分がそれなりに好きなので、最小限の努力で就職力と興味をそれなりに満たせる今の学部にやってきたのだった。



中学校では学年のトップ3だった。高校入ってすぐに落ちこぼれたが、高3になり勉強を再開すると、すぐに上位に戻った。だから自分の能力に絶望してるわけではない。外部の模試では授業の復習を問う定期考査は相変わらず壊滅的だったが、それはまあ「怠惰」だったのだろう。


やればできる、そのことを証明しなければいけない。いじわるなファインマンは僕の矮小なプライドを掘り返してくれた。
なりたかった自分へ少しでも近づくために。少し恣意的に狂わなければいけないかもしれない。

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)