「巨悪」とどう向き合うか

過激な言説はときに魅力的で、社会の暗部を埋めるピースとして最も適しているように見えるものだ。
そのピースは大体の場合は歪つで、お互いが矛盾しあってことに気づくまいと「努力」している。彼らの「現実」が崩れてしまうことを恐れているから。



犯行予告をしていた東大生が逮捕された。

はてな民兼ついったらーから遂に逮捕者が! : http://anond.hatelabo.jp/20081129173838

一週間ほど前だっただろうか、はてなホッテントリでさらされた彼のブログを読んだ。東大法学部が日本を悪くしたー どこかで聞いた言説だ。たぶん2chだったか。彼の言うようなことが日本において部分的に認められるかもしれないが、それがすべての根元だと言い切るには、いささか無理がある。少なくとも、今の時点ではだ。

僕の祖父も、GHQが日本の教育を破壊したと死ぬまで言い張っていた。日教組の問題や、一部において事実だろうが、それがすべてのクリティカルな問題だとも言い切ってしまうのも難しい。その点において、僕の祖父と彼は同じだ。


彼の言う「教科書の現実」とは勧善懲悪な世界で、悪人は例外なく罰せられるべし、とか、そんな世界観だろうかと想像した。あまりあのブログ読んでいないので何ともいえないが、頭がよく、他人を見下しているのが見てとれた。自分は正しく、それは後の歴史やら何やらが判断してくれるとか云々とか考えているんじゃないだろうか。彼の想像する未来において、賞賛され祝福される行動なのだろう。


自分の世界を、自分の正義を疑えない。こういう人たちに囲まれて僕は育った。とあるマイナーな宗教を信望する家庭で育ったのだが、そこの教団の大人達がそうだった。自分の正義でしか物事を測れない。議論をふっかけても聖書にはこうかかれている云々と、他人の意見を拒絶する言説しか持たない故に、自分の狂気に気づかない。神の名の下に、簡単に人の心さえ殺してしまえるのだ。僕の母親の死を踏みにじったように。


彼は、ただただ臆病だっただけではないだろうか。現実を認められないから都合のいい妄想に逃げる。自分が認められない理由を、社会の陰謀に差し替えた。現状を認められないから陰謀論の末葉を自分の都合のいいように解釈して、自分の世界観の中に巨悪を作り上げていく。そのなかに真実が埋もれていく。


本当の悪意は、きっと目に見えない。「誰かの不都合な真実」にとって、陰謀論は絶好の隠れ蓑ではないだろうか。殊更今のようなゴシップが溢れる情報化社会では、だ。

フリーメイソンユダヤ資本、軍産複合体ホロン部経団連、進歩的社会主義者歴史修正主義者、自分が真ん中だと思っているあなた、誰もが誰かを、何らかの意図を持って騙そうとしているかもしれない。その真実を、僕は知らない。あなたは知っているかもしれない。僕は知らない。大多数の人間は知らない。



「努力が報われるとは限らないが、成功した者はすべからく努力した者だ」とは誰が言ったか、僕の好きな言葉だ。ニヒリズムに浸っているだけではなにも生まれはしないだろう。

世界をよくするために、みんながなにかしらの形で努力している。現実は理想ではないが、少しでもよりよい理想へ近づくように努力をすべきなのだ。その努力を捨てたとき、「現実」が終わる。

彼の世界は、いつ終わっていたのだろうか。それとも早すぎた異物だったのか。知らない僕には何ともいえない話だ。