勢い余って書きあげた人工知能論の期末レポート(の一部)


僕の記憶は、3歳のある日から急にはじまった。今でもその日の事は鮮明に覚えている
宙から釣り下がった電灯の紐、三つ並べられた布団、部屋の間取り、ゴム製のウルトラマンの人形の味、アニミズム的に起因するであろう電車の玩具から感じた威圧感、おくらの味噌汁、玄米、食べ終わるまでテレビを見せてくれない母、背を伸ばしても届かない玄関の鍵・・・

それからの記憶は今と連続している。
そのときから僕の「自我」は存在している、と今の僕は認識している。


このような経験から、僕は「自我」というものについて考えていた。
この世界、意識の窓、観測主体たる僕の「自我」は、どこからきたのか。どこへ行くのか。
そもそも「自我」は連続性があるものだろうか?人間の体を構成する要素は代謝によって入れ替わり続けるが、意識を構成する素子はどうなのか?
今の自分の脳が「自我」だと認めている主体が、緩慢に死んでいくのら、それは恐ろしい事ではないだろうか。

もし「昨日の自我」と「今の自我」が異なる存在なら、死んでいった過去の自分を嘆くだろう。
もし「今の自我」と「明日の自我」が異なる存在なら、これから消えていく己の不幸を嘆くだろう。

ニーチェ以降の「神は死んだ」時代で、如何にして自我の有り様を問えばいいのか?
自分の同一性を疑うならば、「我思う故に我在り」は意味をなさないのだ。


哲学的ゾンビに関する問題で、「チューリングテストを合格した人工知能は意識を持つか。また、意識を持たない人工知能は実現可能なのか」という論点がある。もし、ヒトがヒト同様の自我を作る事が可能だとすると、僕はそれこそが生命を産み出す神の領域だと考える。電算的な認識主体、電源コードを抜く事で死ぬ命。これらが可能であると仮定すると、考えようによってはおそろしく残酷なことだ。中絶に関する議論で「脳が十分発達した段階、痛みの認識を持つ胎児を殺すのは倫理に反する」という意見があるが、私たちは知らず知らずのうちに生まれた「自我」を虐殺している、或いはこれから虐殺するのかもしれない。そのような可能性がある。

無論、この考え方は多分にSF的な要素を含んでいる。全人格的なチューリングテストを合格した人工知能は存在しないし、これから現れるにしても、まだ先の事になるだろう。ヒトがヒトの自我を問うことができるが、人工知能人工知能の自我を問うても、その存在の可否はヒトにはわからない。

しかし、それを問う手段を得る事は出来る。「自我」と向き合う手段として、形而上的には哲学、形而下的に脳科学があり、心理の表象を扱う認知心理学などがある。ヒトと向き合い、ヒトの模倣をする人工知能研究は、さしづめ脳のリバースエンジニアリングとでも言えるのではないだろうか。脳の「自我を生み出すシステム」の模倣である。私たちは何者で、どこから生まれ、どこへ行くのか。その答えを人工知能は見せてくれるかもしれない。