規定された個性、その結果

どうやらクソらしい学部学生です。S63の一浪の、次期B2です。


いまどきの学部学生をクソだと思う一つの理由 - あらきけいすけの雑記帳 : http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20090224/p1

だから「考える」というときに「模範解答」を条件反射的に連想して身構える態度は見ていてゾッとする。
そこには考えるプロセスと知的な冒険、あるいは失敗への忌避がある。
誰だよ、彼らにこんな態度を仕込んだやつは。

受験システム。共通一次センター試験によるマークシート方式による答案の択一化、さらには独自性の強い問題を省くことで悪問を減らそうと試行錯誤する二次試験。受験へ向け、一問一答の脊髄反射な課題を詰め込む教員。その現状を把握しながら何もしない文部科学省。とでも言うのが模範解答でしょうか。

参考:数学の定期試験で別解がバツにされるようになった理由 - 地下生活者の手遊び : http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080703/1215073074


「いまどきの」って言ってるからには世代論なんでしょうか。「じゃあ、あなた達の世代はどうなんだ」と聞いてみたくもありますが、どうせ今更ながら語ってもらったところで「昔は良かった」的な論調になるのは目に見えてるので、この際聞きたくありません。

この問題についてはいろいろと個人的に語りたい事がたくさんあるのですが、大学については環境にかなり違いがあると思うので、ここでは義務教育期間のことを、少し述べたいと思います。


僕らの世代は、俗に言うゆとり世代は、あってないような個性を発揮することを強いられた世代です。「アイデンティティー」という言葉が、個性を捻りだす魔法とでもいうかのように叫ばれ、自分らしく生きる事を強制された世代。高校を卒業して気づいたのは、ここでいう個性とは、学園祭で一瞬輝いたり、飲み会で一発芸が出来たりする程度のもので、テストの余白で自説を披露するような個性の事でありません。また、そのような解答欄は用意されてもいません。それは時間がかかるから。
もちろん、「オリジナリティのある解釈」と「ミスリード」は全く違うものです。誰がそれを判断するか?学習指導要領に縛られた、独創性の皆無な教師達です。本当にそういうことを話したかったら、職員室に押し掛けて、相手をしてくれる教師を捜すしかありません。


授業が減ってレクリエーションが増えた?個性を延ばす機会が増えた?
まあ、そういう側面があったかもしれません。しかし、少なくとも進学校では、その時間はほとんど補講にあてられていたという現実があります。全体の授業数が1.5時間減って、授業日が一日増える。補講は出席日数に換算されないのを知っていたので、僕は出席していませんでしたが、補講の日に次期のテストの内容を話す教師がいたり、真面目な生徒は出席せざるを得ない状況でした。


「やりたいことをやれ」と言われても、「なりたい自分」がわからない為に、またそのロールモデルも示されない。
なりたい大人がいない。芸人や女優はバカばっかり。
個性という言葉に振り回され、学校社会からドロップアウトしていった友人達もたくさんいます。彼らがどうなるか、どうなっていくか、今の僕にはなんとも言えません。そんな彼らの現状は、浪人という名のニートです。親から将来に対する投資を引き出したくば、既定路線に乗って勉強するしかないのです。


将来に対する明るい見通しも示されない社会で、学校のがんじがらめなシステムに縛られ、そのシステムの上で最低限要領よくこなすのが、残念ながら今の時代の大多数の学生の在り方です。将来に対して「若者が何をやっても変わらない」、そんなニヒリズムが支配しています。この点だけで言うと、学生闘争時代のエネルギーは羨ましくもありますが、今の社会を作ったのは彼らでもあります。彼らと違い、全入時代の今の大学生はエリートではありませんが・・・。
何が悪かったか、一カ所に原因を求めることもできません。ただ、この時代の閉塞感のようなものを打ち破ってくれる何かを、他人事のように待っているだけです。僕らには時代を変えるエネルギーがない。それは認めざるを得ない。


社会が悪いと責任転嫁しているようですが、僕個人のことではなく全体のことを語るには、避けては通れないことなので、文章に起こしてみました。駄文失礼しました。



追記:
僕個人としては、未来に対して明るい希望を持ちたいし、その為に自分ができることはやっているつもりです