生きる理由は転がってない 人生に意味付けをするのは僕らだ


僕はキリスト教の家庭で育てられ、その反動で無神論者なのだけど、ちょっと無茶苦茶な持論でも投げてみようかな、と。


□生きている意味が圧倒的にわからない

結局、どこにも意味なんてない。

・・・そんなことをいつもかんがえている。


世界が存在する事に、たぶん、意味はないのだろう。宇宙創世の数秒後、そのポテンシャルの微妙なバランスによって、偶然今の宇宙が形づけられた。そして偶然にも数億の精子の中からあなたが生まれ、あなたが自分自身だと認識している意識の主体がある。


「あなたを創る原子の非凡なところは、ただ一点、あなたを創っているというその事実にある」
(人類が知っていることすべての短い歴史/ビル・ブライソン)

■分が悪い賭けに挑む勇気はない それを勇気と呼ぶのなら、だが

冷静でない宗教家や、疑似科学信奉者に多いのが、世界の事象全てに意味を見出そうとして、無茶苦茶な意味付けをし、その理論が外的な理由により破綻をきたすと(例えば科学の新説)、歪な言説を持って否定し、それが全体の品位を下げる事だ。
今は旧約聖書の時代とは違う。「科学教」的な考え方かもしれないが、科学的に導かれた「より真実に近いと思われる」仮説を否定するのも、とても勇気がいる事だ。

悪魔の証明」により神の存在は否定出来ない。だが、仮に「神」が存在するとして、今の時代この世界を導いているとは考えにくい。誰にでも、平等に無関心だ。平等に不平等だ。街で声をかけてくるどこぞの宣教師の、どれか一つが「正解」の神に至る道だとして、僕らはそれをどのように知ればいいだろう? 神の啓示?

人によって創りだされた神の数だけ、啓示がある世の中だ。何かを選ぶにしても、分が悪過ぎる賭けに違いない。そして、歴史的にも、誰かが感じた「啓示」は、普遍のものではない。仮に同じものだとしても、解釈は異なる。だから一神教の神が多数存在してしまう。

■「神は死んだ」時代に何をすべきか

どこかにあるかもしれない(ないかもしれない)真実を探し求めるよりは、生きる理由の捏造なんてのは簡単だ。自分が納得すればそれは成立する。ニヒリズムではない、積極的な神殺し。
「悟り」っていうのは、「絶対に折れない無条件な自己肯定」なんじゃないかな、と、勝手に想像したりしている。それはそれで難しい事だ。自分の考えと行いに矛盾があってはいけない。或いは矛盾なく矛盾を許容しなければいけない。「バカが幸せに見える」っていうのも、矛盾に気づかないその姿への羨望なのだ。矛盾を抱えたまま死ぬ事が幸せかどうか、僕にはわからないが。


僕自身としては、死ぬまでに死ぬ理由を見つけられれば、それでいい。
まだ見つけちゃいないが、納得した死を迎えられれば、それでいいのだ。


先の事、死後の世界の有無は知らない。
ただ、届くかわからぬ祈りより、今を一生懸命生きる事を選びたい。






そういう、たくさんある考え方の一つだ。
ここまで読んでくれた人、ご清聴ありがとう。


人類が知っていることすべての短い歴史

人類が知っていることすべての短い歴史