中学受験と歪んでいった時代のこと 受験と、劣情と


受験について思い出す。受験が悪い、良いではなく、ただただ個人的な経験として、ここに記そう。


参考


僕の家庭は、子供の頃から母が病気がち、父は多忙で、しかし宗教行事だけはどんなに忙しくても熱心に執り行っていた。僕はそれを疎ましく思っていた。某S価ではないが、まあ似たようなもんだ、モ◯モンなんて。(これは今でも疎ましく思っているが。)


自分の中学受験はどす黒い劣情と、その逃避からはじまった。小学6年生にあがるころ、母の病状が芳しくないということで病院に比較的近い祖父宅に預けられることになった。
田舎の学校から転校してきた、当時純朴さの塊だった僕に、ちょっと陰湿な都会の洗礼が浴びせられ(とはいっても県庁所在地のニュータウン程度なのだが)、まあ、なんやかんやあって僕は孤立した。今思い出して言えることだが、、あれはセルフプロデュースの失敗であって、誰を咎めることもできなかったのだけど……
ともかく、それを当時の僕が素直に受け入れられるかと言うとそんなわけもなく、もともとちょっとだけ良かった成績を頼りに、「俺はお前らとは違うんだ!」という歪んだ感情で受験を希望するようになっていた。なにより受験で進学すれば、上手くいかなかった人間関係も捨てることができる。

何も知らない両親は息子の受験を歓迎した。オヤジは県内では有名な中学、高校出身で、なによりそこにいたころの悪友と未だにつるんでいて、中学受験、というものに特別な感情を抱いているようだった。


勉強は、うまく進まなかった。そりゃそうだ。あんなにすぐ上限が見える小学校のテストで、個人の可能性が測れるわけがない。あのカラーテストは、平均ちょい上の生徒が凡ミスするかしないかで100点か95点か分かれるだけで、そして通知表には反映されないものだ。100点を取り続けていた僕より、先生のお気に入りの生徒のほうが全然評定は高いのだ。6年間そうだった僕だからわかる。そしてその事は後に、僕に歪んだ自尊心を生むことになるのだ。


結果として勉強をはじめたのが遅かったこともあり、僕は第一志望の学校(親父の母校だった)に落ちてしまった。その頃にはオヤジは僕が学校で浮いていることに気づいていたようで、県内の別の学校のパンフレットを持ってきた。家から片道1時間40分もかかる場所にあり、一学年一クラス、偏差値50ちょっと、という、たぶん普通の人にとっては行っても金がかかるだけの私立というような学校に、僕は合格し通うことになった。家から遠いのは好都合だ。朝の通学バスで誰ともすれ違うこともない。


ただでさえ不安定な精神状態であったが、受験が終わった2月頃、僕の精神を根本から揺さぶる出来事が立て続けに起きた。飼い犬が散歩中に車に轢かれ、祖父が肺炎を悪化させ死亡し、そして長く闘病生活が続いていた母が死んだ。僅か二ヶ月のことだった。このことでどうしようもなく僕の精神はくたばってしまい、鬱に陥っていた。


中学に入った。エスカレーター組と違い、受験の余力があった僕は、そのクラスで上位、とはいっても40人しかいないのだけど... で、かなりの好成績を収めることができた。ずっと5位以内だったと思う。そこは男子校で、変人の集まりだった。今では珍しい小中一貫校で、人間関係がある程度できあがっているものの、一クラスしかなくみな付き合いが長いので和気藹々としていた。そして、男子校出身者ならわかるであろう、よくわからないハイな何かが常にクラスを支配していた。僕も当時の鬱とその反動から、躁鬱状態に陥ることが多々あった。


僕はそこで空気未満から空気よりはちょっとマシな程度というクラスチェンジを遂げることになる。たまに突飛なことをする天然で面白いやつ、程度の、無難な立ち位置を手に入れた。
自分が傷つかない程度の打算の結果だった。当然、物足りないが、それ以上に外部から完全に切断された状態、俺が話しかけると怯えて逃げる、というような事態だけは絶対に避けたかったのだ。


物足りない、と入っても、一定の満足感が得られたが、僕はそこでまた別の劣情と、そして歪んだ優越感にとらわれることになる。
中学に入ると、僕はテニス部に入った。このテニス部というのがまた異常で、というのも全学年一クラスしかないのに、同学年に県内のベスト3の選手が揃っていた。監督はそいつらを伸ばすのに躍起になり、中学ではじめた僕のような零細選手のことは構ってくれなかった。僕はそいつらにどうにか一泡負かせようと小手先の技を弄し、結果としてテニスでもっとも重要なまともなフォームを失い、自滅していった。今考えると反射神経が微妙なのになんで前衛やってたんだ、と思う。


しかし僕は勉強ができた。中学一年の二学期の頃に確信した。俺はやればできる、と。
中学の成績表では、小学校のときとは違いテストの点がそのまま反映された。僕はそれが新鮮だった。昔から(今でもだが)一貫しているのが、僕は基本的に素行が悪く、授業は基本的に寝ているし、起きていても基本的にはその日の課題をやるだけなのだ。
ちょっと頑張るだけで、誰よりもいい点がとれる。それが嬉しくて、僕の勉強の原動力になった。僕はただ他人より優れている自分を発見したくて勉強していた。テニスでは勝てないあいつらにも勉強なら勝つことができる。それがただひたすらに嬉しい。自分が誰かより優れていると確認する手段が学校のテストであり、模試の偏差地だった。一番調子が良かった頃は県内で二位をとった事もあったっけ。


高校は家から近い、県内二番手の公立校に通った。あえてそこを選んだ。しかし、僕はそこで恋愛にうつつを抜かし(まったく報われなかったのだが)、気づけば勉強から遠ざかっていた。自由な学校だった。僕が自分のアイデンティティであった勉強のことを、まったく忘れてしまえるぐらいに。
気づいたときには受験戦争には手遅れだった。


僕は誰と争っていいのかわからなくなったのだ。そして勉強することを放棄し、家にこもってうなだれていた。出席日数ギリギリで卒業したはずだ。友達がいなかったわけではない。むしろ小学校、高校と比べると友人関係は比べようもなく充実していたはずなのに、それを無駄にした。



…………

これが僕の負け戦で、そして唯一の青春である。


ずっと自分に正直だった。その自分がいくら歪んでいようと、ただ正直であり続けたと思う。今はもう、その気概は失われたように感じる。
この話から何か教訓が得られるかと言うと、そういうわけでもなく、ここに書かれているのは、本当にただの負け戦でしかない。


結局、現役で適当な大学に入るも、周囲のレベルの低さに幻滅して半期で退学し、残りの半年勉強して今の早稲田に入った。最低限の勉強しかせず、結果としても補欠でぎりぎりで入学した。
自分の可能性に対してもっと正直でありたかったとも思うし、しかし今では挑戦するのも怖い。それでいて、あの他人を見下して自分を肯定しようとする歪んだ感情だけは、僕の中に罪悪感として残っているのだ。


ほんのちょっとだけ勉強ができたからといって、自分が優れた人間であるとは思えない。むしろ今の自分は、そのちょっとばかりの才能の残滓に固執しようとする卑小な俗物であると思う。


そういう、あるがままに生きようとした失敗。