地方都市という地獄 あるいは関東圏の「私が住んでるところは田舎だよ(笑」が如何に残酷かについて

都会に住む人間は、その価値を過小評価している。というのが僕の持論だ。そしてそれは東京に6年住んでより強固になった。

都心住まいの価値とは何か - よそ行きの妄想 http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20130115/1358204323


この記事の感想としては、およそ渋谷に特徴的な衛生問題が多いという事実には同情するとしても、常になにかしらの機会が与えられていることを無自覚だ、という点が地方の人間を刺激するだろう。

子供用の自転車が買えなかったとしても、買える距離に生きているのだ。さすがに子供用の自転車ぐらいは田舎でもみつかるが、嗜好品の類はそもそも手に入るかが怪しい。
今ではインターネットで緩和されたとはいえ、それを実際に目にする機会があるかという点において、それを好きになる機会すら与えられないかもしれない。



表題は、地方出身者を最も怒らせる一言である。
僕は、18歳まで長崎県長崎市諫早市で過ごした。諫早市に12年、長崎は6年。諫早は干潟の干拓で一時期話題になった市。
僕は自分の育った街、領域を田舎だと認識している。


田舎には選択肢がない。大小の違いはあれど、大きな意味でたった一つのコミュニティしかなく、何も隠すことができず、常に監視されているともいってもいい。
大人になっても上司は中学や高校の先輩なのはザラ。高校の時にしでかした失敗は、大人になってもずっと周囲の人間が言いふらすから消えない。彼女の元カレ事情とかも聞かなくて知ることになる。誰が誰をどこでナンパした、とか明日の昼には知れ渡っている。就職も東京よりはるかに縁故で決まりやすい。長崎には造船所のせいで市民の1/10は三菱と関係があるし、ちょっと前まで三菱社員は三菱の車しか乗れなかったと聞く。Amazonが届く時間も1~2日遅れ、送料も一回り高い。


なにより学校の縦社会がいつまでも継続される地獄。

光都市だしオシャレなのでは

その都市に住んでいる人ほど、観光の欺瞞にはほとほと呆れている。
出島は本当になにもないくせに、交通の要衝を塞いでいるために邪魔でしかない。オランダ坂はレンガ造りの坂以上の価値はなく、その程度そこら中に溢れている。名前が付いているからランドマークになっているだけだ。

なにか変わった心理があるとすれば、地元の高校生は土産物の安いカステラを買って帰る修学旅行生や観光客を馬鹿にしている。地元では贈答用に福砂屋のカステラが圧倒的に主流で、それすら特別なものではなく、羽田で買えるという事実を皆知っている。

原体験

僕は基本的に自分の街を恨んでいた。その原体験は東京限定だった「ミュウの配布イベント」に行けなかったところが大きい。そのイベントにいきたいと親にねだったことがある。だが子供の駄々に東京まで連れて行ってくれる親などいない。
当時、みんなセレクトバグから生成したミュウには飽き飽きしていて、オリジナルを欲しがっていた。が、そもそもコロコロの懸賞であたる確率は低く、確実に手に入れるためにはイベント会場にいくしかなかったのだ。そもそも懸賞が当たるものだと誰も思ってなかった。
(という記憶があるので調べてみたが、ミュウを配布する、と事前に告知したイベントはなかったらしい。なにか他のイベントと混同している可能性がある)
ミュウ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A6

田舎には選択肢がない

そもそも機会が与えられないのだ。表題の言葉が神経を逆なでするのは、それを発言している人が、都会に行こうと思えば行ける、という事実にある。機会が与えられている。そもそも都心へ一時間でアクセスできる、のに対し、こちらは駅に行くまで一時間かかったりするわけだ。

田舎では画一性を求められるし、そこからはみ出した人間は後ろ指をさされ、ああはなるなとコミュニティの存続に利用される。東京以上に綺麗にアッパーとアンダーにわかれている。


東京は例外だ。そこかしこが匿名で、まるでインターネットだ。
新しいコミュニティなど無限にあるし、いざとなれば逃げ出すこともできるだろう。田舎では「そいつは価値があるか、ないか」の二分でしかないのに対し、東京では「そいつは何の価値があるか」を問うてくる。その点でどれだけの汚点があれど十二分なのだ。


実名主義の人は、一度田舎で無価値なものと足蹴にされてみればよい。その孤独と無力感は、筆舌に尽くしがたいものだから。
僕は進学校だったから他称「変」だとしても許容されたが、そのまま大人にはなれなかっただろう。僕は除外される予定の人間だった。自分のやりたいことに忠実だし、発言をオブラートに包まない。僕ぐらいの人間はインターネットをみてればたくさん転がってて奇人というにも烏滸がましい程度だが、そういう人間ですらそうなのだ。
あるいは、大人になるために画一性を受け入れるという必要があった。それはアイデンティティの喪失であり、田舎はより小さいアイデンティティしか受け入れない。はみ出したものを容赦なく除外する。


お前の言う田舎は甘い、という意見もあるのは予想できる。長崎市は人口40万人。だが、人口40万にですらこうなのだ。より小さい都市はもっと熾烈だと容易に予想できる。